社畜にとってネクタイとは、
『首輪』である。
社畜にとってスーツとは、
『拘束着』である。
かつてはスーツやネクタイを、戦闘服のように感じていた。
「これから会社という戦場に向かうぞ!」
という気持ちにさせてくれる、気持ちの切り替えアイテムだった。
でも、いや待てよ。
向かってるんじゃなくて、「向かわされてる」のではないか?
間違いない・・・。
会社という名の戦場に向かわされていたのだ。
戦場では上官の命令には絶対服従。
逆らうことは許されない。
上官の命令に背くこと、
それは…
「再就職困難」
「住宅ローン不払いによる差し押さえ」
「老後の資金ゼロ」
というような「死」を、みずから招き入れる行為だ。
だとすれば、命令に背くことは現実的に不可能。
いつも明るく戦場に送り出してくれる親しい人たちを、
不幸のどん底におとしいれてしまう可能性があるからだ。
だから上官が「残業」という名の野営を強要してきても、
文句は言わない。
「クレーム」という名の銃弾が飛んできても、
笑ってこの身に受け止める。
仲間が味方を撃ってしまった「ミス」の尻ぬぐいも、
喜んでする。
ひとりで敵陣に突っ込めという「無理難題」を実現するにはどうしたらいいかと、
頭を悩ませたりもする。
もちろん、兵士であるまえにひとりの人間だ。
上官の命令があまりにも常軌を逸しており、
承服しかねるときもある。
感情的になりたくもなるのだが、
引きつった笑みを浮かべて任務を続行する。
そんな無情な戦いの日々が続くと、
心身に支障をきたす仲間も出てくる。
急にすべてにおいて投げやりになったり、
感情を制御できなくなったりなど、
戦場でまったく使いものにならなくなる。
しかし、もしそうなっても上官は動じない。
数ある兵士のうちのひとりの負傷など、
取るに足らない出来事だからだ。
いくらでも代わりの駒は居る。
適切なケアを受けられない心身不調の兵士たちは、
なすすべなく銃弾に倒れ、戦場を去ってゆく。
こうなると不安に駆られるのは、残された兵士たちだ。
「明日は我が身」だと恐れおののき、
気づけばその不安を現実に変えてしまう者さえいる。
上官の命令に背いても「死」
背かずとも「死」
死に囲まれた戦場で、兵士という名の社畜は今日も戦う。
私にとってネクタイとは、首輪である。
私にとってスーツとは、拘束着である。
もちろん、首輪がつながれている先は、会社という名の戦場だ。
逃げようとすれば親しき者たちの顔が浮かび、地面に足がとらわれる。
逃げずに戦場におもむいても、いつ銃弾に倒れるかと恐怖が襲う。
そんな葛藤を抱えながらも、兵士の私は今日も戦う。
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